[第60話]萬代橋はじめてものがたり 昔は有料の私営橋でした

 かつて、信濃川下流域にはひとつも橋がありませんでした。川幅により約700メートル離れていた旧新潟町と旧沼垂町を結ぶのは舟だけでした。

 明治4年(1871)、財源のない明治政府は、治水・道路整備を地方の要務として、個人などによる開通・架橋に要した工事費に応じた料金の徴収を認める布告を発しました。架けられた橋で通行者に橋銭(通行料)を課す事業が各地で始まります。しかし、信濃川下流域においては、早くから架橋を必要とする声は多かったものの治水計画が進まず、架橋実現は先延ばしにされていました。

 明治17年(1884)に信濃川河川改修計画が決定されたことを受けて、翌年、新潟日日新聞社長の内山信太郎が、第四国立銀行(後の第四銀行)頭取の八木朋直を出資者として架橋を県に出願しました。当館所蔵の県土木部の「雑事甲書類473号」で架橋から県営に至までの経緯を知ることができます。

 明治18年(1855)11月、内山信太郎は「新潟ヨリ沼垂ニ達スル大河是迄渡川ヲ以テ通行セシニ付平常交通運搬ノ不便タルハ勿論烈風雨又ハ冬季ノ候ニ至レハ通航ヲ止ムルコト数々有之・・・往来運搬ノ便ヲ開クハ今日ノ急務」として、「架橋ノ儀ニ付願」を県に提出しました。「信濃川賃銭橋実地目論見帳」によると内山は、架橋のための総計費を約24,700円と見積もり、萬代橋の橋銭収入により、工事費を20年間で完済できる見込みをたてていました。それに対して県は翌年2月、「架設橋銭請求免許命令書」によると、工事費償却のための橋銭を取るのは竣工から20年間とすること、免許期間終了後は無償で官有とすることなど16条の免許条件を内山に示しました。加えて、完成した萬代橋に掲げる「掲示案」も示しました。そこには、橋銭として「一、金一銭五厘 人一人」とありました(実際は1銭になりました)。同月、県は内山に萬代橋の架橋許可を出し、明治19年(1886)11月に萬代橋が完成しました。当初、橋銭のせいもあり利用者は思ったほど増えなかったようでしたが、橋近くの道路建設や鉄道開通もあって徐々に利用者も増え、萬代橋が県営になる明治33年(1900)まで橋銭の徴収は続きました。

 旧新潟町と旧沼垂町を結んだ萬代橋は、いまや通勤・通学や日常生活には欠かせない存在となりました。かつて料金を払わなければ渡れなかった時代があったことを考えながら萬代橋を渡り、川を渡れる便利さをかみしめてみるのも良いかもしれません。

「雑事甲書類473号」の画像1
【雑事甲書類473号(万代橋買収指令の件ほか)】(請求記号H97土監232)

「雑事甲書類473号」の画像2
【雑事甲書類473号(万代橋買収指令の件ほか)】(請求記号H97土監232)

「雑事甲書類473号」の画像3
【雑事甲書類473号(万代橋買収指令の件ほか)】(請求記号H97土監232)